

| こんにゃくの原料のこんにゃく芋のふるさとは東南アジアのインドシナ半島とされています。奥深い山にこんにゃくの中間が自生しています。それから中国を経て、仏教と共に日本に渡来、1500年近い年月が経っています。中国での利用がほとんど停滞していたのに比べ、日本では江戸時代に粉の作り方や料理法の工夫がなされ、飛躍的に消費が増大しました。骨や歯を作り、年をとってからの骨折や寝たきりを防ぎます。
こんにゃく畑 |
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こんにゃくは植物 |
| もともとこんにゃくはサトイモ科に属する多年生の草本で、地下に球茎が出来ます。このの部分が | |
| こんにゃく芋で、これを一般に「こんにゃく玉」と呼んでいます。 | |
| 先に書いてますが、こんにゃくの原産地は、インドシナなどです。東南アジアや中国の奥地には今も | |
| 野生のものがあるようですが、食用として栽培しているのは日本だけです。 | |
| こんにゃくは日本の各地で栽培されていますが、最も多く生産されているのは群馬で、栃木、福島、 | |
| 茨城がそれに続いてます。 | |
| 日本にこんにゃくが伝えられたのは、仏教伝来と深いつながりがあるとか言われています。 | |
| 欧米では”悪魔の舌”と呼ばれて食用にされず、日本独特の食べ物として育ったようです。 | |
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食べ始めたのは平安の昔 |
| こんにゃくが庶民の間で食べはじめられたのは、平安時代になってからです。 | |
| 勅撰「拾遺和歌集」の中かに「野をみれば春めきにけり青つずらこにやくままし若菜つむべく」とあるこ | |
| とから、こんにゃくは当時すでに相当普及していたものと思われます、これを加工して食べはじめたの | |
| も、この頃からなのです。 | |
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精進料理とこんにゃく |
| 室町時代に入ると、都の路上でこんにゃくを売る姿が見られるほどになり、精進料理にも使われて、 | |
| ますます復旧するようになります。 | |
| 当時は、一日2食の食生活だったため間食をとっていたようですが、お寺では間食に「糟鶏」といって、 | |
| 薄いみそ煮にしたおでんのはしりのようなものを食べていたようです。 | |
| 宮中でも、こんにゃくが料理に使われ、女房(官女)たちは、「にゃく」と呼んでいたようです。 | |
| このころ「二条関白」と呼ばれ、和歌にも非凡な才能を示した二条良基が、こんにゃくなどの精進ものと | |
| 魚が合戦をまじえるという「精進魚類物語」を書いています。 | |
| 「祇園林の鐘の声きけば、諸行も無常也、。沙羅漕林寺の蕨の汁、盛者ひつすひ、しぬべき理をあら | |
| はす」ではじまっているところから、「平家物語」をもじって書かれたもののようです。 | |
| 江戸時代になると、こんにゃくはさらに大衆化して、料理屋がさかんに開かれ、料理本も書かれるようになりました。 |
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田楽のはじまり |
| 羽津(津市)の宿場にこんにゃく名物がでてくるという話が、「東海道中膝栗毛」に載っています。 | |
| ここで宿泊することになった弥次郎兵衛と喜多八が、夕食に出されたお膳を見ると、三つの皿に、こん | |
| にゃく、焼け石、みそがそれぞれに入っており、これをどうやって食べるか思案に暮れるところがおもし | |
| ろく書かれています。宿の主人が出てきて食べ方を教えますが、こんにゃくを焼け石でたたいてよく水 | |
| 分を出し、みそをつけて食べており、これは、こんにゃく田楽と呼ばれるものです。 | |
| 田楽焼きは、豆腐にみそをつけて焼いたものがはじまりで、こんにゃく、なすなどの野菜類、魚類、(こ | |
| の場合は魚田と呼ばれる)に応用されています。 | |
| その名の起こりは、田楽法師の高足の曲といわれる踊りの形と、豆腐に一本串を刺して立てた形が似 | |
| ているところからといわれています。 | |
| この豆腐の代わりにこんにゃくを用い、焼くかわりに煮こんだものが、煮込み田楽、いわゆる”おでん” | |
| なのです。 | |
| おでんが発生したのは、幕末期の江戸からで、芝居の「慶安太平記」に丸橋忠弥が「煮込みのおでん | |
| でやっちょるね」というくだりがあるところから、当時の風俗を反映しているのでしょう。 | |
| 幕末の大阪では、秋も深まる頃になると、「おでんさん」と呼び、「年三つ」とは、一串の値段が三文であ | |
| ったことからきています。 |